今朝の朝日新聞の一面記事では、野田首相とクリントン国務長官の会談を報じた中で「米政府は原発推進の政策は変えておらず、日本がこれまでの原子力政策を転換すれば、米国の原子力政策や日米の技術協力、米の原子力産業にも影響しかねないことから、米側が『関心』を示したとみられる」とあります。
これ、一体誰の主観なのでしょうか。クリントンの発言のどこから具体的にそう読みとれるのでしょうか。
僕はべつに、米側の政策がそうであるかもしれないということ自体に異論があるのではありません。
気になるのは、この記事の書かれ方じたいが、なんとなく読み手が「脱原発は非現実的」と感じるように誘導しているかのように読めることです。
エネルギーが足りなくなるという言い方をしても、放射能は無害だという言い方をしても人々を説得しきれないと知るや、現在原発推進の立場を取る政治家は、国防問題に絡めて必要性を説くという段階にきていると思います。
そして原発政策を、高度な政治的課題であり、本来国民の担うイシューではないのだという印象を持たせようとしています。
その戦略に、報道までもがなんとなく押されてるように見えるのは私だけでしょうか。
この段に来て、小林師範が昨年の拡大版道場で語った「原発というヒナから核兵器は生まれない」という認識が重要になって来ています。
正直その認識がなければ僕自身「原発は国防上必要」というムードに流されてしまっていたかもしれない。
今度の道場にゲストで来て下さる自由民主党所属衆議院議員の河野太郎さんは、原発について、抑止力にも役だたない、と論理的に解説されております。
http://www.taro.org/2012/09/post-1261.php
では、いまだに原発が抑止力に役立つと言っている政治家は、本気でそう思っているのか、それとも原発利権を守るために「国防」を利用しているのでしょうか。
前者だとしたら、説得出来る余地は残されているのでしょうか。国防のためには何が必要かを根本から考え直す機会はどうやって作れるのでしょうか。
問題は、たとえば河野太郎さんが、自民党の中で、その説得力を拡大していくすべはあるのか、ということです。
そのへんのことは、ぜひ河野さんに伺っておきたいと思います。
そんなところまで踏み込んで話が出来れば、単に「脱原発」のまっとうさを相互確認するだけに終わらない、有意義な拡大版道場になるのではないかと、『倫理と成長の脱原発』の一週間後の開催を前にして考えている次第です。